
TOTO'S的釣り哲学考
by MAJI 2001〜
語録・縁起(ジンクス)・諺より

▲「釣人不語」釣り人は語らず。まぁ、多くを喋ると個人的穴場が荒れる。かつて、佐藤垢石
が井伏鱒二に「十年釣って、三行書け!」と言っている・・が、垢石はというと、「三回行って、
一冊」を書いている巨匠でもある方。ただ、怏々・・にして、釣り人の話は大きく、事実とは異な
る虚偽妄想の語り・・が、多くなるのが現実。
▲北の動物王国の主・畑 正憲さんは、八丈島の磯水深30mのところで1mのマダイを目撃
されたらしいが、この方の「釣り観」がTOTO'S的なので記しておく。「やたら細いハリスで、魚の
引きを楽しむことを薦めたり、釣った魚は自然に帰せ・・などと<中略>だが、私は釣れた魚を
満月のようにたわませなかなか取り込まない。そして、手元で仏のような表情を浮かべ、そっと
元へ返してやる。それが愛情でありえるだろうか。殺生を好まないんだったら、釣りなどしなけ
ればいい。私は地球と人間の精神の衰弱を思う。」・・・と、書かれてある。多少の矛盾とご尤な
意見でもある。・・・と思う。僕はやはり、釣った?釣れた?掛かった?・・以上は、美味しく食
す・・ことが、魚の気持ちではなかろうか・・と思う。愛しくも果敢ない命を謳歌させるにはそれが
一番と考える。
▲釣り師というものは一寸意地のあるものである。<團伊玖麿 氏・談>
確かに、意地なくして釣りは出来ず、釣れるまでの忍耐はやらない人にとっては狂人的行為で
ある。しかし、いかなる生物も持ちえる本能が苦と感じなくさせる。コレをTOTO'S的には「フィ
ッシング・ハイ」というんだが、回りの様相や物音ひとつさえ気にならなくなる時がある。これ
は、「意地」ではなくて宗教的にも満ちた「サトリ」の世界である。"快感"となる長くて短い瞬間
なのである。(本文では、釣り師というものは一寸意地悪なものである・・と、ある)
▲三代目 三遊亭金馬 氏曰く、「僕は釣りをしていて怪我をしたのではなく、釣りの帰りであ
る。それを釣りのせいにするのは"釣り"に気の毒である。」タナゴ釣りの帰りに汽車に跳ね飛
ばされた時の金馬氏の有名な言い訳?である。TOTO'S的と言えばTOTO'S的!その後に「昔
の人が”急がば回れ””危ない橋は渡るな”あの見本を皆に見せたのである」・・とおっしゃって
おられる。負け惜しみが強いというか、釣りという道楽に対する哲学がここにあるような気がす
る。石井研堂「釣師気質」(つりしかたぎ)にも、幸田露伴の書にも似たような、釣り道楽の哲
学が読み取れる。(次回、詳しく取り上げる・・・つもり?)
▲TOTO'S的「鬼十則」
1、釣果は自ら創るべきで、与えられるものではない。
2、「釣り」とは、先手先手と働き掛けて行くことで、受身でやるものではない。
3、大きな獲物と取り組め、小さな獲物はおのれを小さくする。
4、難しい獲物を狙え、そしてこれを仕留める事に進歩がある。
5、取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは・・・。
6、周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのでは、長い間に天地の開きができる。
7、計画を持て長期計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8、自信を持て、自信がないから君は釣りに迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9、頭は常に全回転、八方に気を配って一分の隙もあってはならぬ、釣りとはそういうものだ。
10、摩擦を恐れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
有名な「販売の神様」と言われる電通4代目社長、吉田秀雄の営業マン語録をTOTO'S的にも
じってみた。釣りをするものとしてそこまで言われたくはないが、行き当たりバッタリでキャスティ
ングをしているよりも信念と自信を持ってキャスティングをして釣った獲物は100倍喜びがあ
る・・・と言うことだろう。つまり、釣れたのではなくて釣ったのだ。くれぐれも、この十則の為に釣
り場で過労死・突然死を招かぬように・・労災は効きません!
▲私の尊敬する乞食俳人「種田山頭火」も釣りを虚なく?愛したらしい。
「ゆうべのさみしさはまた畑を打つ」適当で自由奔放、優柔とTOTO'S的でありませぬか。しか
し、山頭火が釣りを覚えたのが死ぬ5年前の夏。その時、山頭火氏は「乞行は一種の労働だ、
殊に私のような乞食坊主には堪へがたい苦悩だ」と、そこで「・・・鉄鉢を魚篭に持ち替えた。人
生は時に応じ境に随うてこだわらないのがよろしい」とその後、「釣は逃避行の上々なるもの
だ、魚は釣れなくても句はつくれる、句も釣れないでも良い、一竿の風月は天地悠々の生々
如々である・・・・。」もう少し早くから釣りをやられていたら、句が違ったのでは・・・「水底の太陽
から釣り上げるひかり」私の誕生日の日に自殺を図った。逃れるための「釣り」ではなかつた
はずなんだけど・・・・・・。
▲北国には奇天烈な美味でなかなか口に出来ない魚がいる。「ハッカク」正面から見ると八角
形をしている。まるでうちに長居をしているアマゾン産プレコのようでもある。それよりも実に奇
妙なヒレ並びで上も下もヒレがデカイ・・!あまりにも形が凄いものだから古い北国の漁師の家
では剥製にして神棚に飾り魔よけにするという。しかし、これを食すると脂がのった白身で炉辺
で焼いて食べると最高の至福・・となる。現地でもめったと食べることは出来ない貴重な魚であ
る・・・らしい。・・が、西新宿の炉辺「小樽」では早い時間に行けば食することができる。ともか
く姿形容姿では判断しては行けないのが魚なのだ。うちのプレコもひょっとして美味いのか
も・・・!本人も最近、殺気を感じているらしく妙にソワソワしている。
▲幸田露伴著の「遊魚の説」に、こんなことが書いてある。「釣りに、金のことを言ってはならな
い。釣りをして遊ぶのは、金を遣うことである。釣りの損得を言うものは、むしろ市場に走って
魚屋を尋ねる方が良い。日々良く勤め、時々良く遊び、家にあっては各自の仕事を忘れず、糸
を垂れては遊魚者の資格を忘れず、<中略>たとえ釣り方が下手でも、大公狷が五六十年経
っても一魚も釣れず、康王父が五百年かかって一魚も手に入らなかったようなもの、清福十
分、俗界にあって仙界に通じ、愚者にして賢者でもあるだろう。」ステキなお言葉・・・!うちの上
さんにも解かってほしいものである。
▲たとえ、ラインを跨いでもライズがあればキャストすべきだ・・!<プロ S氏・談>
ただし、「身内の・・・」というのが付く。つまり「身内のラインはライズがあれば跨いでもよい」・・・
らしい。さすがプロ・・と言うところ。芦ノ湖のボートフィッシングでの出来事で午後ライズがちょこ
ちょこ出だした頃、船尾でキャストするS氏が船首でライズを発見するや否や、手返し素早く、
船首で釣るフライマンのフライよりも遥か先にプレゼン・・・!その時、ラインが クロスしてい
た・・・らしい。後に知人に指摘された時の回答がこれだった。普通なら喧嘩沙汰。井伏鱒二の
書にも「場所取り」のイザコザが書かれてあったが、これはボートならではの出来事で親しき身
内ゆえに起きた。それにしても不安定なボート上で素早い手返しとフライの飛距離は人を唸ら
せる凄さ・・があった。もとい・・・・どうも「忍野」での出来事・・らしい。
▲名山大川に遊ぶこと殆ど四方を遍くした。<雪舟・談>
あちこち旅をして名のある山や川は殆ど遊び尽くした・・と、画聖・雪舟が親友の了庵に語っ
た。・・・雪舟は1467年遣明師に紛れ込んで中国に3年ほど渡っている。そのときの語録。画を
見れば判るが画風が極端に変化している。「大地の教え・・自然こそが師」・・といったところ。
我々が通い詰める川も行くたびに変化変貌していて、教えられることが、常にある。完璧がな
いから通い続けるのかもしれない。それにしても、東山七条にある京都国立美術館は大盛況
で、2時間半も晴天の庭に並び、文化的行為で日焼けしたのは初めてだった・・・!
▲節ありて、竹強し。<江戸和竿「東作」六代目 松本 三郎 氏・談>
「節目節目に苦労や困難、努力と言ったものを経験するから、人間は強くなる。中が空洞の竹
は要所要所に節があるからこそ、細くて長くても風に負けない」・・・と、おっしゃる。「東作」とい
えば、徳川慶喜や山岡鉄舟らが、ひいき筋という和竿の元祖的ブランドでもある。「節目が多
いほど(詰まっているほど)粘りと反発力があり、強い」・・らしい。人間も同じ事が言えそう。ち
なみに和竿のガイドは節から出る枝に対し直角につける・・・通常カーボンの場合スパインを見
て癖のあるほうにガイドをつけるが和竿の場合は違う・・・という事に気づいた。
▲日本最古の釣り本と称される「何羨録」(かせんろく)の下巻に「すべて魚が泳ぐ時、皆水に
逆らって上がる。飛ぶ鳥もまた、多くは風に逆らう。魚が水に逆らい 鳥が風に逆らうと魚の鱗
や鳥の羽は順調に働き、逆に水流や風に従って泳ぎ飛んだりすると、鱗や羽が順調に働かな
い。人間が困苦の中に生きて安楽に死ねるのも、またこのようなものである。」中国、明の時
代の「五雑爼」(ござっそ)と言う 天・地・人・物・事の五部門に分けて書かれた雑記を引用し
て、人も魚に学べ・・!と言われておられる。魚の習性を知れば、いつ、どこで、どうすれば良
いか、自ずと身につく・・また、それだけで終わらず、人間も思案して困難を克服してこそ、幸せ
な人生をまっとうできる・・・とも、説かれておられる。この「何羨録」は1723年に津軽妥女が
書いた・・とされる釣りの古典。釣り道具から天気、場所、釣り方まで書いてある道楽書。文面
が漁師になっていないのがヨロシイ・・!中身は東京湾のキスのことばかり。
▲「六物壱つ備わざれば魚を得るべからず」六物とは竿・糸・浮き・錘・ハリ・餌を言うがコレ
がひとつでも欠けると魚は釣れないと・・中国の古諺で言っている。今やコレだけでは釣れず、
ハリひとつ取っても何万種類とあり、フライで言えば大きさ・パターンだけでも最低20種は必要
とされる。竿にしても専用があり、ブッシュにはブッシュ用の竿で、湖には湖用の竿と・・現代で
は六物どころではない。暇のほかに、今やお金と保存場所の確保が、たかが一匹の魚を釣る
にも必要となる。これが16世紀のアイザック・ウェルトン時代はどうだったかと言うと、六物ま
では同じで、プラス、砥石にナイフ、生き餌に死んだ餌、網と弁当、それに小物を入れるケー
ス・・となっている。増えている・・!ウェルトンと言えば釣り師のバイブル「釣魚大全」に、TOT
O'S的なお言葉が・・・「釣りというものは、一種数学のようなもので、誰もがつきつめられるも
のではない。無限に広がる知識と経験のすべてを後輩に教えたとしても完全であると言うわけ
ではなく技術の道は永遠に謎なのです。」おっしゃる通り・・!いくら教わっても、教えても、結
局、その人の体験からくる流儀が優先されるし、また、時代によっても上記のように変わってく
るモノが「釣り」なんだなぁ・・と、思う。
▲「太公望」と言えば「釣りの代名詞」になるぐらいの中国・周の時代の釣りの神様?しかし、
本当はこの方、釣りは下手だった・・。「歳70にして、三日三晩釣るに一匹も釣れず・・」同じと
ころでずーっと糸を垂らしていたが全然釣れなかった。経験も知恵もある70歳の時に、です。
その時、見かねた神様の神様が「糸を細くし、香ばしい餌をつけ、静かに投げ込みなさい!」
と、教わったら、行き成りフナが釣れ、続けて大きな腹をしたコイが釣れた。鯉の腹を裂いて見
ると、釣りの「虎の巻」が出てきた・・そうな。それから釣りの代名詞になるぐらい、お上手になら
れたのではあるまいか・・?しかし、後年この方は武王を助け中国統一した賢臣。いつ釣りを
する暇があったのだろうか・・・モノの本によると「毎日釣りをし、悠悠自適だった」とある。私
にとっては「イカのチンポコ(ある訳が無い)」夢のまた夢である。でも、TOTO'S的・・!
▲水中写真家 中村征夫 氏 曰く「魚は頭の先から尻尾までほとんど毎日食べている。僕が
水中写真を撮るのも魚を骨までしゃぶりたいと言う下心からだ。」世界中の海の中を知る中村
さんにすれば、おそらく魚の習性、捕食、時期なども、すべてお見通しのハズ。最近潜って思う
にサカナ達は釣り時の地上で右往左往する私達に対しての警戒心・・と言うか敏感さは水中で
見るとないのである。被写体としてもイイ ポーズをして頂けるし、逃げも走りもせず、適当に滞
在していれば、ヤマメは近寄って来たりも、する。見ているととても釣るのに難しい魚とも思え
ず、増して食べようなどと、思わなくなってしまう。妙なことをすると矛盾がよぎり、釣ることが出
来なくなってしまいそうだが、地上で竿を持つと概念が変わるのが不思議だ。なぜだろう・・?
釣り師に転じると古来の脳が本能を呼び起こす。つまり、「釣れないと今日の晩飯はないぞ・・」
コレをTOTO’S的には「オピオイドペプチド(本能麻薬)的下心」と言うんだが、釣るために
は魚の習性なり行動 捕食物の研究は古来よりプロがやってきた。さらに、それだけでは納得
できず、私みたいに酸素のない到底、踏みこんでは迷惑な水の中で見たいのである。魚と一
緒に・・・その時は、好奇心であっても、根底には、中村氏が言うように「下心」が存在している。
しかし、生かされていることは、まず、釣りの時はない・!なぜならば、不条理が生じるからだ。
▲ 漁夫は、必ずしも興あり無しを
論ずべきにあらざるなり。
漁夫にして、遊漁夫の振舞いを学ばば、
これ勤勉なる漁夫にあらざるなり。
遊漁夫は、興を得るを主とすべし。
必ずしも、魚を獲るの多き少なきと、
論ずべきにあらず。
遊漁夫は、その竿を敏にして、
その論を微にし、もって、そのあたりを、
精にし、興を多くせんことを図るべし。
必ずしも、魚捕りを速やかにして、
多護せんことを、図るを要せざるなり。
釣りは、手段にあって目的にあらず。
幸田露伴
当時の「遊釣師」のあり方を説いたハシリ・・であろう。魚たちにすれば迷惑な話・・であろう。た
だ、乱獲や生態系を保護する上ではとても大切なことで、おかげで僕らも今だ「釣り」ができ
る。ありがたい・・ことだ。「釣り」に釣れることだけの楽しさを求めてはいけない・・と言うことで
あろう。
▲釣り師マグナ・カルタ 九章
1.読め
2.耳をたてろ
3.両目を開けたままで眠れ
4.右足で1歩1歩歩きつつ 左足で跳べ
5.トラブルは歓迎しろ
6.遊べ
7.飲め
8.抱け 抱かれろ
9.森羅万象に多情多恨たれ
そもそも出版人の日々の心得を巨匠・開高氏が説いたものをそのまま「釣り師」に置き換えた
がなんとなく解る。釣り場に立てば神経鋭く、「悠々として急ぎ」時として羽目を外し、すべてのモ
ノや出来事に情をもち接する事で釣りにも味とコクがでる。尾崎紅葉の小説にも同じようなタイ
トルの小説があるが恨んだり悔やんだりすることも釣りに巾と艶ができる・・と言えよう。
▲釣士のための語録<作者不明 1973>
男は心の中に遊園地を持っている。
鉄の手腕である。壁がない。妥協がない。躊躇がない。不可能がない。
右目で今日を読み、左目で明日を読み、一瞬のうちに永遠を見てしまう。
激務というまとわり就くハードルを縦横無尽に飛び越え、
いささかの呼吸の乱れもなく日常という魔物をこなしていく。
その日々は、徹底的に完璧である。鉄面の心臓でもあるが、その胸には、
そよ風にも震える少年の感受性が潜んでいる。
細やかな心の繊維。精神の果実。意識の中の海図・・・。
その日、男は静かに部屋を出ると、薄汚れた一台のチェッカーを拾った。
「Grando central stat on!!」
男は夢の入り口に向かった。
その目は遊園地に向かう子供の目だった。
”I am arock, ama island・・・” ポールサイモンの唄が聞こえてくる。
一切の無。無辺際の静。過当と喧騒に浸かった舌には、これ以上のご馳走はなく、
全身とろけるように無に浸る。いま、わたしは岩である。太古の波に洗われる島である。
無頓である。洗い晒しである。純である。朴である。潮の匂いである。
何かに侵食されたと感じる時、ここに来る。女の肌よりぬくもりがある。
無言包擁。友こそ、我が大国。
放浪の旅、男には流される雲さえ誘われるエトランゼへの憧れがある。
鉄の日々、定期券のような毎日、完璧であればあるほど漂白の恋に焦がれる。
漂えど沈まず、漂うこと。
男の心には遊園地をを持っている。遊ぶ、無駄をする。そして また遊ぶ。
美しく遊んだものこそ、人生の覇者になれる。持ち時間はたっぷりある。
Life as game・・・・・・。
コメントは不要かと思われる
▲続く・・・
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